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老子
私が説いた「無為自然の道」を、「何もしないでいいのだ」と、「ぶらぶらしろ」と、「悠々自適」というふうに誤解して取る方もおります。しかし、それは方法論として、ある程度当たっているのです。人間は、毎日毎日、あくせくと働いております。そして、たまには坐禅などを組んで、魂を洗おうとしているわけです。こういうふうに、あくせくする心があるからこそ、迷いが出てくるのです。そういう意味では、たとえば坐禅というものは、「心を空っぽにする」という修行においては、また意味のあるものなのです。「埋もれたものを発掘する。あくせくした心を払い除ける」、そういう意味ですね。ですから、ただ、のんべんだらりとするわけではありません。意識的に心を解放するということです。
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